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初期の迷い


 過去の迷いや煩悶を思い出して記すことは古傷をさらすのに似て、実際のところあまり気のすすむ仕事ではない。いまさらながら、(大袈裟に言えば)この過ぎ去りし無知と蒙昧の日々を忘れ去りたい抑圧気分が邪魔をしてしまう。
 うまく表現できるかどうか自信はないが、自らの立脚点を確立するまでの経緯はそのまま現代日本漢方の問題点を引きずって歩いてきた感が強いのである。

 初期の東洞流にかぶれていた当時、「方証相対論」を信奉していた頃は、先人の口訣や諸先輩方の語著作を頼りに、時に大効を奏する喜びに目が眩んで、無条件に東洞流の古方に憧れていた。
 やがて、陰陽五行学説等の内経思想を基礎としたもう一つの古方派があることを知ってしばらく深入りしかけたものの、思想や理論が臨床面にあまり直結しない理論武装の世界ではないかと、直ぐに多少の疑問を感じるようになった。
 しかし、当時(十五年前頃=平成18年からは32年前ということになる)手に入れた中国における傷寒論や金匱要略の解説書の内容に、かなりな共通性があるのに驚かされたりもした。

 かくして、東洞流の古方ばかりか、内経思想を基礎とした古方派の学習に並行して、中国で出版される中医学の原書を収集し始め、日本国内において漸く出版され始めた中医学の解説書や翻訳書も殆どすべてを購入して学習するという、支離滅裂な学習と実践が続く。

しかし、臨床面では当時も日本漢方界の主流を占めていた東洞の流れを汲む「方証相対」を錦の御旗とする実践が中心であり、先輩諸先生方が書かれた書物は殆ど余すことなく学習しつつの実践であった。
 まもなく、みずからの実践的な体験から、日本流における「実証、虚証」の概念について、現代の考えにつながる強い疑問を抱くようになった。拙著(東明社発行『求道と創造の漢方』)中の31ページに、十年前頃の「漢方の臨床」誌に発表したものを転載して「胆石症に大柴胡湯」と題し、

 胆石症の多くは大柴胡湯の応じる場合が殆どであるということは常識的なことになっている。日頃の健康時の体質的な虚証、実証はあまり関係しないことも事実であり、実際のところは、胆石症や胆嚢炎に限らず、一見脾弱に見える痩せ型で、胃下垂、内臓下垂型と思われる人にも、季肋部や心下部のみが特別に充実しているのを案外見かけるものである。 そんな現実を考えると、一般に言われるところの、大柴胡湯は実証向きで、小柴胡湯は虚実中間、柴胡桂姜湯は虚証向きである、などという言い方は、私は嫌いなのである。こういう見方、言い方は、全体的な、総合的で、しかも却って漠然としたもので、実地に役立つのは胸脇部や心下部の部分的な充実度が重要なのである。したがって身体各部の部分的な虚実を云々するならともかく、漠然と実証だ、虚証だと言うのは、そのことに比べればあまり意味のあることとは思えない。

—村田恭介著「求道と創造の漢方」東明社刊

と書いている。

 また、その少し前(15年前頃=平成18年からは32年前)には、「漢方の臨床」誌の誌上で、桑木崇秀先生が「陰陽虚実について」と題して中医学的な考え方の合理性を発表されたことで、古方派の先生方と論争に発展したことが印象深かった。 その時の古方派の高名な先生のお一人が、東洋医学会において、麻黄湯などの太陽病に対する方剤を「表仮寒証」であると提唱されるに至って、私の愚鈍な頭は酷い混乱状態に陥ってしまった。

 当時の私としては、たとえば麻黄湯を「表実証」と表現するような日本漢方に対して、「表実証」であるとする中医学的な考え方に合理性があると考えながらも、ずいぶん長い間、悩まされ続けていた。その挙句に「表仮寒証」などと提唱されるに至っては、いよいよ混乱の極に達して、いよいよ漢方理論そのものに不信を抱かざるを得なくなった。

 辛温解表薬を中心に配合された麻黄湯を「表実証」などと全く矛盾した概念でよしとする日本漢方における錯誤、及び「表仮寒証」と提唱されるが如き晦渋な解釈は、実に理解に困(くる)しむものである。

 ともあれ、当時の私としては、まだまだ中医学の基礎理論に対する理解は浅薄なもので、その当時に紹介され始めた中医学の入門書にしても、「八綱弁証」ばかりを中心に論じてクリアカットに簡略化したものが多く、極めて重要な「臓腑弁証」を疎かにしたもので、その為に却って幼稚な知識しか得られなかった。

 これらの初期の中医学入門書のハシリの多くは、日本の方証相対論に媚びる姿勢が感じられ、処方決定時の選薬方法は弁証論治と言われるレベルには到達しておらず、いたずらに単純な理論化が目立った。但し、中医学特有のキメ細かな弁証論治からは程遠い「似て非なるもの」としか言いようがない面があったとは言え、当時としては中医学的な考え方を逸早く日本に紹介した功績は大きいと思われる。

 中医学の正統なものが紹介され始めたのは直ぐその後のことで、十二年前(平成18年からはおよそ29年前)頃には神戸中医学研究会の訳で発行された上海中医学院の「中医学基礎」であったと思われる。日本語で読めるものだけにインパクトは強く、その後しばらくして発行された「漢薬の臨床応用」を手にした時の感激は忘れられない。
 中医薬学の学習にいよいよ拍車がかかったものの、今にして思えば当時の私の漢方はまるでチャンポン漢方で、実践面では日本流の知識に生齧りの中草薬学知識を取り入れての小刀細工が目立った。  党参(とうじん)、金銀花(きんぎんか)、延胡索(えんごさく)、枳殻(きこく)、丹参(たんじん)、鶏血藤(けいけっとう)等の中草薬を盛んに仕入れて独自の境地を進んでいるつもりの、思い上がりの時代でもあった。

 ところが、やがて中医薬学知識が増え、中国における医案集などを学習し始める頃には、却って中医学の難しさを思い知ることとなった。  ある雑誌で「中医学書を二三度読んだくらいで理解できる訳がない」といった類のことを読んだことがあるが、確かに言われる通りであろう。  当時の私の漢方は、本誌に過去「中草薬漫談」を発表以後、ずっと本格的に中医薬学を学習して来たつもりであるが、どうしても中医学の実践において、安易に行える日本漢方の方剤中心のパターン認識術の枠内から飛び出す自信が得られないままであった。

 多くの中草薬を使いこなすのも大変なことであり、日々煎薬ばかりの仕事は体力的な疲労を生む。まだまだ応用自在な中医学を行うことは出来ずに小刀細工の加減法ばかりであることに気が付いて、愕然としてしまうのであった。  結局は方証相対論の世界からいつまでも抜け出られない自分が情けなくもあった。

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